通りすがりの知恵ぶくろさん 以前の書き込みで、「遠山氏と真田氏の血を持つとされる一族に興味がありました。」とありますが調査結果を教えて下さい。 言い伝えでは私の先祖は真田家であると言われており、戦(大阪の陣?)に敗れて逃げてきたとの言い伝えがあります。また私の先祖は真田家であるとも言われており、最近の調査でみつけた「真田家系譜」の中に「武田家 遠山左馬之助が真田昌幸の女兄弟を妻とした」とあります。遠山左馬之助は真田繁信の叔父になります。 この人が私の先祖に繋がるか調査中です。 返信 ↓
岩手の遠山です。2回目の投稿です。前回の投稿の際には色々と書き込みがあったようですが、投稿したきりですっかり忘れていて、回答もせず申し訳ありませんでした。 ところで、このたび、今までの調査結果を「気仙遠山家とそのご先祖様」という本に纏めました。オンデマンド印刷で少量印刷し、関係する親戚には既に配布済みです。しかし、残部が少しありますので、どうせなら同じ遠山で関心のある方には広く読んでいただきたいと思いました。申し込みいただければ無料でお送りしますので、お気軽に申し込み下さい。メールアドレスは以下です。 ryotoy00@gmail.com 返信 ↓
初めて投稿致します。 今、眞田昌幸の妻のことを調べています。 昌幸の妻が武田信玄の養女、山の手殿とか宇田頼忠とか 異説がある中遠山右馬助の娘の説もあります。 遠山右馬助の長女以外の娘に少篠と名乗る人がいるかどうかを探しています。 もし該当する女性の存在が分かれば幸いです。 返信 ↓
投稿ありがとうございます。 遠山右馬助については私も調査したことがあります。武田家臣の末裔の方々の旧温会(甲府)に入会して調査しましたが、信濃遠山氏の初代和田城主遠山景広の子であるとの史料をみつけましたが信濃遠山氏は滅亡したので史料も残っていないようです。真田家系図に真田昌幸の妹が武田家遠山左馬之亮の妻とありましたが、今後、武田家臣の遠山氏を調査するので何か情報があればお伝えいたします。 返信 ↓
真田町教育委員会出版の真田通記の真田系譜に真田幸隆の女子が「武田家 遠山左馬亮の妻」と書かれていますが、武田信玄の足軽大将の遠山右馬亮と同じ一族でしょうか?情報をお持ちの方がいましたら、お教え願います。 返信 ↓
ご無沙汰しています。 久しぶりにHPを見たので、記載しておきます。 2代目の真田信綱の嫡男である真田与右衛門は、越前松平家へ仕官したので、大坂の役に参戦したとしても徳川方だった可能性が高いです。 父の信綱が戦死した時に、幼少で主君の武田勝頼から真田本家を継ぐことが許されませんでした。 母である信綱正室の於北の方も信綱戦死の5年後の天正8年(1580年)2月10日に本原屋敷で亡くなり、広山寺に葬られました。 真田与右衛門は、元服するまでは伯父の真田昌幸の元で過ごしたと思われますが、関ヶ原の前に昌幸の元を去り、慶長5年(1600年)6月7日に仙石秀久に仕えたと「仙石家諸士略家譜」にある。 その後、何時からか越前松平家へ仕えて越前真田氏の祖となりました。 信綱系は後に断絶し、同じ越前松平家に仕えた信綱の弟・昌輝の子である真田信正の子孫が越前真田氏を継いで現在も続いている。 ・真田信綱の系譜 真田幸綱(幸隆)ー信綱ー与右衛門ー信興ー信光 ※与右衛門・信興・信光は兄弟説もあるが、子孫説が有力。 ・真田昌輝の系譜 真田幸綱(幸隆)ー昌輝ー主税介信正ー五郎兵衛幸寛ー源太左衛門尉幸明 ※幸寛は、沼田藩主の真田信直からの要請で3年間限定で沼田に奉公したと「松平文庫」・「諸士先祖之記」に記録がある。 真田与右衛門は、加賀前田家にも仕えたという説がありますが、この説の出元が解りません。 越前真田氏を継いだ昌輝系子孫には、真田本家が伝える「越前真田家文書」として伝来しており、3代目本家を継いだ昌幸には家伝の全てを相続していないと考えられている。 真田昌幸も武田勝頼の命もあり、嫡男の信幸と信綱娘の清音院(与右衛門の姉)と婚姻をさせたが、当時の信幸は10歳で、実際は婚約で婚姻は元服後となったとされる。 これにより、昌幸は真田本家を継ぎ、兄の信綱の遺産である1万5千貫文の金と領地を引き継いだが、家伝等の文書は信綱の未亡人である於北の方が引継ぎ、子の与右衛門へ受け継がれたとされる。 返信 ↓
補足として追記しておきます。 真田昌輝の嫡男の信正が、越前松平家に仕えたのは3代目の松平忠昌の家臣だったからなので、越前へ移封される前から士官していました。 松平秀康(結城秀康)の次男である忠昌の移封歴は以下の通りです。 ①上総姉ヶ崎藩1万石 大坂の役後に加増され ②常陸下妻藩3万石 ③信濃松代藩12万石 ④越後高田藩25万石 ⑤越前北ノ荘50万石 なので、真田信正は大坂の役以前から仕えていた可能性があります。 そして、忠昌は真田本家である上田藩の隣の松代藩(1616~1618年)だったこともある。 場合によっては、信綱系の与右衛門より、昌輝系の信正の方が松平忠昌に先に仕えた可能性が高いかもしれません。 信正の伝手で、与右衛門が松平家へ仕官したのかもしれません。 一説に、真田信正は真田昌幸の元を離れた後、徳川家に仕えて松平忠昌付きになったという話もあります。 返信 ↓
真田与右衛門の加賀前田家に仕官した話の出どころが解りました。 前田利家の六男・前田利貞の子である前田出雲貞里の著作である「聞見雑録」に、真田余与右衛門という人物の話があります。 真田与右衛門ことだと思われます。 真田余与右衛門が伝手を頼り、加賀前田家に仕えた。 ある日、前田の殿様が野駈けの折に、この者を見て袖の六文銭の紋に気づいた。 しかし、仔細は聞かずに殿様は「あの銭の数だけ知行を与えてやるように。」と指示した為、後に600石の知行を与えられた。 この殿様は、大坂冬の陣で真田丸の戦いで負かされた前田利常という説と、大坂の役の際に登用した家臣を養うのに困窮した貞里の父である前田利貞だった可能性もある。 利貞は、亡くなる2ヶ月前の元和6年(1620年)6月に食録返上を願い出ているので、真田与右衛門が利貞の家臣であった場合は、それまでに前田家を退去している可能性が高く、その後に越前松平家へ仕官したのかもしれない。 返信 ↓
貴重な情報ありがとうございました。 真田一族の書物に真田与右衛門は豊臣方として大阪の陣に参陣して、大阪城落城時に脱出したとあります。名前が、「貞平」、「貞幸」かハッキリしないが、「貞」を使っている事。私の先祖も大阪の陣に参陣して、逃げてきたと言われており、与右エ門あるいはその子?)が遠山姓を名乗って新潟に来住したのではないかと思っていますが、人違いのようですね。
岩手の遠山です。今ご先祖様探しをしています。系図によれば、初代のご先祖様は姓は藤原遠山刑部家光之孫と記載され本国は美濃とされています。初代の名前は遠山采女記載されています。 采女は寛永20年1643年に死亡していますので、関ヶ原の戦いか、それ以前の江義遠山のお家断絶か何かで岩手に移って来たのかと推察しています。しかし、色々調べましたが、遠山刑部家光という人物はどこにも見当たりません。刑部と呼ばれた人物は江義遠山と苗木の遠山に存在しますが家光ではありません。名前は違うものの年代的には江義の方が近いのかなとは考えています。どなたか、家光と呼ばれる遠山をご存知ありませんか。 返信 ↓
書き込みありがとうございます。同じ遠山さんで驚きましたが、これからも情報交換お願いいたします。江義遠山(和田)については現地調査も数回行いましたが、家紋は「二匹両」といわれていますが、私の調査では明治まで「二枚違いの鷹の羽」の両方使っていた人もいました。また、江義遠山氏お家断絶となったとき、一族の者が坊さん姿になって逃げてきたという、長野の遠山さんとも出会いましたが、その方も家紋は「二枚違いの鷹の羽」を使用していました。他の遠山一族も含めていろいろな家紋を使っていたようです。家紋はあまりあてに出来ないですが、そちらの遠山さんの家紋はなんでしょうか? 返信 ↓
遠山良さん 私が持っている資料(遠山一族:日本家系家紋研究所)によれば、「奥州の遠山氏の家紋は丸に二つ引きで、今盛岡にあり。陸前登米郡(古名遠山村)との関係明らかにならざるも、或いは北条家臣の系をひく流れならんか」と書かれています。ご参考までに。 返信 ↓
先程、連絡したのと同じで、別の関係者にも連絡していた返答がありました。 ●江儀遠山氏について 飯田市歴史研究所の千葉拓真氏より、 「研究所には中世・戦国期を専門とする研究員がいないため、詳細なことはわかりかねます。 また詳しい方についても、心当たりがございません。 飯田市美術博物館で少しわかる方がいらっしゃるかもしれませんが、どこまでご存じかは何とも言えません。 現在、研究所は移転の最中で資料や書籍をほとんど梱包してしまっており、それらをもとにお答えすることも困難です。 また遠山氏のまとまった史料についても現状では存在を確認できていません」という内容でした。 千葉氏からは、参考になりそうな文献として、 『南信濃村誌 遠山』 『断家譜』(江戸時代に断絶した家の系譜) 等を調べてはというアドバイスがありました。 また、断片的には『信濃史料』少し書かれている可能性があるということでした。 『信濃史料』については綱文を長野県立歴史館のホームページ上で検索できるそうです。 同族の苗木藩遠山家の史料に系譜については、中津川市の苗木遠山史料館へ問い合わせするのが良いだろうということでした。 既に、上記で調べている物もあるとは思いますが、一応伝えておきます。 宜しくお願いします。 返信 ↓
和田に調査に行ったとき、宮司の遠山さん(城主の末裔)とお会いして飯田美術博物館の桜井さんを紹介していただき、電話で話したことがあります。苗木資料館、岩村資料館も調査済みです。和田の遠山一族滅亡後、一族達はどこへ行ったのか、一族の名簿みたいなものは残っていないのか、このあたりを調査しています。アドバイスいただいた断家譜を調査してみます。またなにか情報がありましたら、是非教えていただきたいと思います。ありがとうございました。 返信 ↓
以前にヤリトリした際に、美術館などに問い合わせで電話をしたという話があったので、被っているとは思いましたが連絡させて頂きました。 『断家譜』などに、何かしらヒントがあれば良いですね。 調査の健闘をお祈りします。 自分は、貴方の祖先の遠山氏と真田氏の血を持つとされる一族に興味がありました。 昔、明智光秀や織田信長を調べている内に、遠山氏を調べて脱線し、真田氏に夢中になって調べたことがあったので気になっていました。 また片手間になってしまいますが、何かあれば連絡をさせて頂きます。 返信 ↓
「遠山氏と真田氏の血を持つとされる一族に興味がありました。」とありますが調査されたのでしょうか? 最近、真田通記の中に真田系譜に「真田昌幸の女兄弟が武田家遠山左馬之亮の妻」と書かれていることを見つけました。この子孫を調査したいと思っていますが 何かご存知でしょうか? 返信 ↓
以前に、知恵袋や此方サイトで遠山氏についてヤリトリをした者です。 その時に、色々関係者を当たり問い合わせをしたのですが、返答があったのを其方へ連絡をするのを忘れていました。 念の為、お伝えしておきます。 ●江儀遠山氏の遠山郷(遠山谷)について 遠山郷観光協会・事務局の菅原槙一氏より連絡がありました。 「当地域にはあまり資料がなく、江儀遠山氏も当地域からはでていかれたようで、ほとんど分からないというのが実情のようです。」 当地域で80歳の備前屋薬局・野牧さんが一番詳しく話ができる人らしいです。 既に話を通してくれているので、何か聞きたいことがあれば対応してくれるとこのこと! 良ければ、問い合わせをしてみて下さい。 既に、この辺りを調査済みであれば、連絡しなくても結構です。 以上、宜しくお願いします。 返信 ↓
書き込みありがとうございます。このサイトを見つけていただいて感謝しております。 和田の野牧さんは直接お会いしたことがありませんが、一度電話したことがあります。和田へは3回ほど出向いて、遠山氏に詳しい新井さん(亡くなりました)、遠山一族の菩提寺の龍淵寺のご住職に話を伺ったことがあります。この時の情報は、武田家滅亡後、徳川家康の傘下となった遠山氏は真田昌幸を成敗するため120名の軍勢とともに上田に遠征し、真田正幸と戦いましたが、約20名が上田に住み着いて、和田に戻らなかったようです。この中には真田側についた者もいたとのことです。その中に私の先祖がいて、何等かの理由により、上田から新潟に渡ったのではないかとの事でした。 返信 ↓
やはり、既に対応済みでしたか! 御丁寧に返答を有り難うございました。 自分も別の研究をしていて、そちらへの返答が遅くなりました。 ご指摘の通り、江儀遠山氏が徳川家康の家臣となり、真田昌幸と戦った際に、参戦して死んだ者や離散した者がいたというのは調べたので知っています。 ただ、その後の信濃に残った人物達の足跡が良く解りませんでした。 あくまで伝承の域で、具体的な人物名や寺・墓の記録が出てきませんでした。 現地でのフィールドワークをしてないので、現状ではこれが限界だと判断しました。 返信 ↓
これは私の個人的見解ですが、第一次上田合戦で徳川軍として参戦した南信濃の城主遠山景直は約130名を引き連れ上田に遠征し、約20名がもどらなかったようですが、この中に私の先祖がいたとして、真田の家来にはなれない(よそ者)ので、家来の家来(陪臣)だったとすれば、真田の藩臣録には載らないと思います。1622年に上田城主が真田信之から仙石氏に交代して、1632年に先祖の遠山信貞が新潟に来住しています。真田の領地の支配体制は真田家臣ー陪臣ー農民の順でしたが、真田信之に変わってからは農民の領地が増えています。つまり、陪臣は必要なくなったので、全国的に開墾の時代でしたから、新潟に一族で来たのではとも思っています。 返信 ↓
通りすがりの知恵ぶくろさん
以前の書き込みで、「遠山氏と真田氏の血を持つとされる一族に興味がありました。」とありますが調査結果を教えて下さい。
言い伝えでは私の先祖は真田家であると言われており、戦(大阪の陣?)に敗れて逃げてきたとの言い伝えがあります。また私の先祖は真田家であるとも言われており、最近の調査でみつけた「真田家系譜」の中に「武田家 遠山左馬之助が真田昌幸の女兄弟を妻とした」とあります。遠山左馬之助は真田繁信の叔父になります。
この人が私の先祖に繋がるか調査中です。
武田家臣の遠山氏を調べる方法をご存知の方がおりましたら教えて下さい。
岩手の遠山です。2回目の投稿です。前回の投稿の際には色々と書き込みがあったようですが、投稿したきりですっかり忘れていて、回答もせず申し訳ありませんでした。
ところで、このたび、今までの調査結果を「気仙遠山家とそのご先祖様」という本に纏めました。オンデマンド印刷で少量印刷し、関係する親戚には既に配布済みです。しかし、残部が少しありますので、どうせなら同じ遠山で関心のある方には広く読んでいただきたいと思いました。申し込みいただければ無料でお送りしますので、お気軽に申し込み下さい。メールアドレスは以下です。
ryotoy00@gmail.com
初めて投稿致します。
今、眞田昌幸の妻のことを調べています。
昌幸の妻が武田信玄の養女、山の手殿とか宇田頼忠とか
異説がある中遠山右馬助の娘の説もあります。
遠山右馬助の長女以外の娘に少篠と名乗る人がいるかどうかを探しています。
もし該当する女性の存在が分かれば幸いです。
投稿ありがとうございます。
遠山右馬助については私も調査したことがあります。武田家臣の末裔の方々の旧温会(甲府)に入会して調査しましたが、信濃遠山氏の初代和田城主遠山景広の子であるとの史料をみつけましたが信濃遠山氏は滅亡したので史料も残っていないようです。真田家系図に真田昌幸の妹が武田家遠山左馬之亮の妻とありましたが、今後、武田家臣の遠山氏を調査するので何か情報があればお伝えいたします。
真田町教育委員会出版の真田通記の真田系譜に真田幸隆の女子が「武田家 遠山左馬亮の妻」と書かれていますが、武田信玄の足軽大将の遠山右馬亮と同じ一族でしょうか?情報をお持ちの方がいましたら、お教え願います。
試験投稿1
真田信綱の嫡男の与右衛門は信繁と大阪の陣で戦い、落城時に落ち延びたと言われているが、与宇右衛門について情報をお持ちの方、教えてください。
ご無沙汰しています。
久しぶりにHPを見たので、記載しておきます。
2代目の真田信綱の嫡男である真田与右衛門は、越前松平家へ仕官したので、大坂の役に参戦したとしても徳川方だった可能性が高いです。
父の信綱が戦死した時に、幼少で主君の武田勝頼から真田本家を継ぐことが許されませんでした。
母である信綱正室の於北の方も信綱戦死の5年後の天正8年(1580年)2月10日に本原屋敷で亡くなり、広山寺に葬られました。
真田与右衛門は、元服するまでは伯父の真田昌幸の元で過ごしたと思われますが、関ヶ原の前に昌幸の元を去り、慶長5年(1600年)6月7日に仙石秀久に仕えたと「仙石家諸士略家譜」にある。
その後、何時からか越前松平家へ仕えて越前真田氏の祖となりました。
信綱系は後に断絶し、同じ越前松平家に仕えた信綱の弟・昌輝の子である真田信正の子孫が越前真田氏を継いで現在も続いている。
・真田信綱の系譜
真田幸綱(幸隆)ー信綱ー与右衛門ー信興ー信光
※与右衛門・信興・信光は兄弟説もあるが、子孫説が有力。
・真田昌輝の系譜
真田幸綱(幸隆)ー昌輝ー主税介信正ー五郎兵衛幸寛ー源太左衛門尉幸明
※幸寛は、沼田藩主の真田信直からの要請で3年間限定で沼田に奉公したと「松平文庫」・「諸士先祖之記」に記録がある。
真田与右衛門は、加賀前田家にも仕えたという説がありますが、この説の出元が解りません。
越前真田氏を継いだ昌輝系子孫には、真田本家が伝える「越前真田家文書」として伝来しており、3代目本家を継いだ昌幸には家伝の全てを相続していないと考えられている。
真田昌幸も武田勝頼の命もあり、嫡男の信幸と信綱娘の清音院(与右衛門の姉)と婚姻をさせたが、当時の信幸は10歳で、実際は婚約で婚姻は元服後となったとされる。
これにより、昌幸は真田本家を継ぎ、兄の信綱の遺産である1万5千貫文の金と領地を引き継いだが、家伝等の文書は信綱の未亡人である於北の方が引継ぎ、子の与右衛門へ受け継がれたとされる。
補足として追記しておきます。
真田昌輝の嫡男の信正が、越前松平家に仕えたのは3代目の松平忠昌の家臣だったからなので、越前へ移封される前から士官していました。
松平秀康(結城秀康)の次男である忠昌の移封歴は以下の通りです。
①上総姉ヶ崎藩1万石
大坂の役後に加増され
②常陸下妻藩3万石
③信濃松代藩12万石
④越後高田藩25万石
⑤越前北ノ荘50万石
なので、真田信正は大坂の役以前から仕えていた可能性があります。
そして、忠昌は真田本家である上田藩の隣の松代藩(1616~1618年)だったこともある。
場合によっては、信綱系の与右衛門より、昌輝系の信正の方が松平忠昌に先に仕えた可能性が高いかもしれません。
信正の伝手で、与右衛門が松平家へ仕官したのかもしれません。
一説に、真田信正は真田昌幸の元を離れた後、徳川家に仕えて松平忠昌付きになったという話もあります。
真田与右衛門の加賀前田家に仕官した話の出どころが解りました。
前田利家の六男・前田利貞の子である前田出雲貞里の著作である「聞見雑録」に、真田余与右衛門という人物の話があります。
真田与右衛門ことだと思われます。
真田余与右衛門が伝手を頼り、加賀前田家に仕えた。
ある日、前田の殿様が野駈けの折に、この者を見て袖の六文銭の紋に気づいた。
しかし、仔細は聞かずに殿様は「あの銭の数だけ知行を与えてやるように。」と指示した為、後に600石の知行を与えられた。
この殿様は、大坂冬の陣で真田丸の戦いで負かされた前田利常という説と、大坂の役の際に登用した家臣を養うのに困窮した貞里の父である前田利貞だった可能性もある。
利貞は、亡くなる2ヶ月前の元和6年(1620年)6月に食録返上を願い出ているので、真田与右衛門が利貞の家臣であった場合は、それまでに前田家を退去している可能性が高く、その後に越前松平家へ仕官したのかもしれない。
貴重な情報ありがとうございました。
真田一族の書物に真田与右衛門は豊臣方として大阪の陣に参陣して、大阪城落城時に脱出したとあります。名前が、「貞平」、「貞幸」かハッキリしないが、「貞」を使っている事。私の先祖も大阪の陣に参陣して、逃げてきたと言われており、与右エ門あるいはその子?)が遠山姓を名乗って新潟に来住したのではないかと思っていますが、人違いのようですね。
私の先祖は貞信で、貞を使用しています。
「聞見雑録」の所蔵先を教えていただけませんか?「見夢雑録」を探していましたが同じ物でしょうか?
岩手の遠山です。今ご先祖様探しをしています。系図によれば、初代のご先祖様は姓は藤原遠山刑部家光之孫と記載され本国は美濃とされています。初代の名前は遠山采女記載されています。
采女は寛永20年1643年に死亡していますので、関ヶ原の戦いか、それ以前の江義遠山のお家断絶か何かで岩手に移って来たのかと推察しています。しかし、色々調べましたが、遠山刑部家光という人物はどこにも見当たりません。刑部と呼ばれた人物は江義遠山と苗木の遠山に存在しますが家光ではありません。名前は違うものの年代的には江義の方が近いのかなとは考えています。どなたか、家光と呼ばれる遠山をご存知ありませんか。
書き込みありがとうございます。同じ遠山さんで驚きましたが、これからも情報交換お願いいたします。江義遠山(和田)については現地調査も数回行いましたが、家紋は「二匹両」といわれていますが、私の調査では明治まで「二枚違いの鷹の羽」の両方使っていた人もいました。また、江義遠山氏お家断絶となったとき、一族の者が坊さん姿になって逃げてきたという、長野の遠山さんとも出会いましたが、その方も家紋は「二枚違いの鷹の羽」を使用していました。他の遠山一族も含めていろいろな家紋を使っていたようです。家紋はあまりあてに出来ないですが、そちらの遠山さんの家紋はなんでしょうか?
通りすがりですが、香川県の遠山です。私の家紋も2枚違い鷹の羽です。遠山のルーツに興味がわき、調べていたらこちらにたどり着きました。
チロルさん書き込みありがとうございました。情報交換お願いします。
遠山良さん
私が持っている資料(遠山一族:日本家系家紋研究所)によれば、「奥州の遠山氏の家紋は丸に二つ引きで、今盛岡にあり。陸前登米郡(古名遠山村)との関係明らかにならざるも、或いは北条家臣の系をひく流れならんか」と書かれています。ご参考までに。
先程、連絡したのと同じで、別の関係者にも連絡していた返答がありました。
●江儀遠山氏について
飯田市歴史研究所の千葉拓真氏より、
「研究所には中世・戦国期を専門とする研究員がいないため、詳細なことはわかりかねます。
また詳しい方についても、心当たりがございません。
飯田市美術博物館で少しわかる方がいらっしゃるかもしれませんが、どこまでご存じかは何とも言えません。
現在、研究所は移転の最中で資料や書籍をほとんど梱包してしまっており、それらをもとにお答えすることも困難です。
また遠山氏のまとまった史料についても現状では存在を確認できていません」という内容でした。
千葉氏からは、参考になりそうな文献として、
『南信濃村誌 遠山』
『断家譜』(江戸時代に断絶した家の系譜)
等を調べてはというアドバイスがありました。
また、断片的には『信濃史料』少し書かれている可能性があるということでした。
『信濃史料』については綱文を長野県立歴史館のホームページ上で検索できるそうです。
同族の苗木藩遠山家の史料に系譜については、中津川市の苗木遠山史料館へ問い合わせするのが良いだろうということでした。
既に、上記で調べている物もあるとは思いますが、一応伝えておきます。
宜しくお願いします。
和田に調査に行ったとき、宮司の遠山さん(城主の末裔)とお会いして飯田美術博物館の桜井さんを紹介していただき、電話で話したことがあります。苗木資料館、岩村資料館も調査済みです。和田の遠山一族滅亡後、一族達はどこへ行ったのか、一族の名簿みたいなものは残っていないのか、このあたりを調査しています。アドバイスいただいた断家譜を調査してみます。またなにか情報がありましたら、是非教えていただきたいと思います。ありがとうございました。
以前にヤリトリした際に、美術館などに問い合わせで電話をしたという話があったので、被っているとは思いましたが連絡させて頂きました。
『断家譜』などに、何かしらヒントがあれば良いですね。
調査の健闘をお祈りします。
自分は、貴方の祖先の遠山氏と真田氏の血を持つとされる一族に興味がありました。
昔、明智光秀や織田信長を調べている内に、遠山氏を調べて脱線し、真田氏に夢中になって調べたことがあったので気になっていました。
また片手間になってしまいますが、何かあれば連絡をさせて頂きます。
これは心強いですね。今後ともよろしくお願いいたします。調査結果もまだ掲載していないことが多いので追加内容を赤色にしておきます。
断家譜は手掛かりなしでした。ありがとうござました。
「遠山氏と真田氏の血を持つとされる一族に興味がありました。」とありますが調査されたのでしょうか?
最近、真田通記の中に真田系譜に「真田昌幸の女兄弟が武田家遠山左馬之亮の妻」と書かれていることを見つけました。この子孫を調査したいと思っていますが
何かご存知でしょうか?
以前に、知恵袋や此方サイトで遠山氏についてヤリトリをした者です。
その時に、色々関係者を当たり問い合わせをしたのですが、返答があったのを其方へ連絡をするのを忘れていました。
念の為、お伝えしておきます。
●江儀遠山氏の遠山郷(遠山谷)について
遠山郷観光協会・事務局の菅原槙一氏より連絡がありました。
「当地域にはあまり資料がなく、江儀遠山氏も当地域からはでていかれたようで、ほとんど分からないというのが実情のようです。」
当地域で80歳の備前屋薬局・野牧さんが一番詳しく話ができる人らしいです。
既に話を通してくれているので、何か聞きたいことがあれば対応してくれるとこのこと!
良ければ、問い合わせをしてみて下さい。
既に、この辺りを調査済みであれば、連絡しなくても結構です。
以上、宜しくお願いします。
書き込みありがとうございます。このサイトを見つけていただいて感謝しております。
和田の野牧さんは直接お会いしたことがありませんが、一度電話したことがあります。和田へは3回ほど出向いて、遠山氏に詳しい新井さん(亡くなりました)、遠山一族の菩提寺の龍淵寺のご住職に話を伺ったことがあります。この時の情報は、武田家滅亡後、徳川家康の傘下となった遠山氏は真田昌幸を成敗するため120名の軍勢とともに上田に遠征し、真田正幸と戦いましたが、約20名が上田に住み着いて、和田に戻らなかったようです。この中には真田側についた者もいたとのことです。その中に私の先祖がいて、何等かの理由により、上田から新潟に渡ったのではないかとの事でした。
やはり、既に対応済みでしたか!
御丁寧に返答を有り難うございました。
自分も別の研究をしていて、そちらへの返答が遅くなりました。
ご指摘の通り、江儀遠山氏が徳川家康の家臣となり、真田昌幸と戦った際に、参戦して死んだ者や離散した者がいたというのは調べたので知っています。
ただ、その後の信濃に残った人物達の足跡が良く解りませんでした。
あくまで伝承の域で、具体的な人物名や寺・墓の記録が出てきませんでした。
現地でのフィールドワークをしてないので、現状ではこれが限界だと判断しました。
これは私の個人的見解ですが、第一次上田合戦で徳川軍として参戦した南信濃の城主遠山景直は約130名を引き連れ上田に遠征し、約20名がもどらなかったようですが、この中に私の先祖がいたとして、真田の家来にはなれない(よそ者)ので、家来の家来(陪臣)だったとすれば、真田の藩臣録には載らないと思います。1622年に上田城主が真田信之から仙石氏に交代して、1632年に先祖の遠山信貞が新潟に来住しています。真田の領地の支配体制は真田家臣ー陪臣ー農民の順でしたが、真田信之に変わってからは農民の領地が増えています。つまり、陪臣は必要なくなったので、全国的に開墾の時代でしたから、新潟に一族で来たのではとも思っています。
試験投稿です